こんなところに93同期!?【第2回】後藤田正純君 – 慶應義塾1993年三田会

こんなところに93同期!?【第2回】後藤田正純君

こんなところに93同期!?

【 第2回 】後藤田正純君


衆議院議員・自由民主党副幹事長
後藤田 正純

2000年自民党公認で徳島選挙区から立候補して初当選後、6期連続当選。これまでに内閣府副大臣、自民党徳島県連会長を歴任。 現在、自由民主党副幹事長。 わずか44歳の若さで第二次安倍内閣の内閣府副大臣に選任されるなど自民党の若きエースとして将来を嘱望されている政治家の一人。妻は女優の水野真紀。警察庁長官、内閣官房長官、法務大臣を歴任した後藤田正晴 (故人) は大叔父。
1969年東京生まれ。
1993年 慶應義塾大学商学部卒、三菱商事株式会社入社
1998年 同退社
2000年 衆議院選挙・徳島3区より初当選
2009年 自由民主党徳島県支部連合会会長就任(2013年退任)
2013年 内閣府副大臣就任(2014年退任)
2014年 衆議院選挙・徳島1区より6期目当選
【後藤田正純・公式サイト】
http://www.gotoda.com/

生い立ち

 
代々医者の家系

「祖父の代から医者という家で育ちました。父は府中市で外科病院を開業し、私の姉と兄も医者になっています。ただ、三人兄弟の末っ子だった私は、父から子供の頃に『うちに医者は三人もいらん』『医者に出来ない仕事をしろ』『社会にメスを入れろ』と言われていました。」

幼少の頃から医療と政治が身近に

「一方で、子供の頃から政治の世界も身近でした。徳島の祖父は、地元で医者を続けるかたわら、東山村長、徳島県議を務めました。その祖父の弟が内閣官房長官、副総理などを歴任した後藤田正晴。また、医師であり社会党の代議士であった井上普方は父のいとこで親戚です。」

小学6年生の時「政治家になって国を動かしたい」

「そういう環境もあって、 子供の頃から気軽に与党と野党、両方の事務所を行ったり来たりしていました。 私は、子供心に『政治家になるだけではダメだ。国を動かさなければ意味がない』と感じ、小学6年生の時には「将来の夢」という作文に『政治家になって国を動かしたい』と書いていました。いま政治家として社会政策、そして成長政策としての医療制度の改革という大きな政治課題の解決に向けて取り組んでいるのは、そういう原点を持った私なりのミッションなのかもしれません。」

「また子供の頃から徳島にもよく帰っていて、田舎は見捨てられないなというのもあった。 自分たちのルーツ、墓も見捨てられない。兄もたまたま東京でドクターで地元には帰れないし。 まあ、東京で遊びつくしたので、なんか懺悔の気持ちもあったかも(笑)。」

学生時代は?

 

大学の卒業式

雀荘通い&海外旅行

「実は、あまり学校には行っていませんでした。特に日吉時代は、よく雀荘に通っていましたね。バイト先の下北で他の女子大の先輩とお茶してたり(笑)。」


村田ゼミの仲間と

実はバイト経験豊富

「バイトはなんでもやった。夜にホテルの清掃とかスナックとか、昼にゴルフのキャディーとか。 僕は高校からお小遣いもらってなかったから、自分の道は自分で切り拓けと言われていたので。バイトしては海外を一人旅していた。そういう男でした(笑)。 」

海外旅行の思い出


卒業旅行時

「卒業旅行はスペインに行きました。マドリッドからバルセロナ、トレド、セゴビア。バスとかでほぼスペイン全土を周りました。あと、思い出深いのはタイかな。中高の同級生と一緒に行って、彼は今も六六本木でバンコクっていうタイ料理のお店をやってるんですが。タイでは、ビーチボーイもやってましたね。カオサンロードとかね。」


商学部・村田ゼミ(卒業アルバムより)

卒業後は?

 
三菱商事で7年間勤務


三菱商事時代の同僚
左)濱口健宏氏【現・日建産業㈱代表取締役】
中)竹増貞信氏【現・㈱ローソン代表取締役】
右)後藤田君

「三菱商事に入社後、鉄鋼部門で約7年間務めました。いまだに当時の取引先の人たちと会ったり、パーティーや会合に顔を出してくれたりもしますね。」

「鉄鉱石とか原料の輸入は優秀な奴。僕はドメスティックっだったんで。あんまり優秀じゃなかった奴は国内営業(笑)。大企業との取引とかではなく、川崎の鉄鋼団地とか、茨城の工場とか。地方の中小企業もたくさん営業回りしましたよ。でも、そうした経験が意外に選挙に役立った。」

「まあ、意外に鉄鋼は基幹産業ではあって。中小企業のおじさんたちや、当時、自殺などもあって。それが今の仕事につながっていて、この政治の世界に出る最終的な決断にもなった。」

周囲の反対を押し切って政治家に

「先代が引退の時に選挙に出たいと僕が言ったら『社会勉強をちゃんとしてないやつが政治家なんてふざけるな』と一喝されました。 いわゆる秘書になって政治家になるなんいう(規定路線みたいな)のを先代は嫌っていたようで。まあそれが逆によかったんですけど。 まあ、こういう流れで、そろそろ時期かなという時に、地元から自民党の候補者がいないという状況もあって、最終的にこいつ(自分)を出せということになった。 で、そういう時に、僕がうんともすんとも言わずに勝手に会社をやめちゃったんですよ。」

「特にうちの家族は全員反対だった。世襲と言われるし、名前も「正」まで一緒ですしね。まあ実際は2.5世なんですけど。 本当に、亡くなったおばあちゃんとか、皆反対でしたね。」

自分流のやり方で

「まあ、普通この世界では、先代の後援会の偉い方とか、本当は最初そういうところから挨拶に行かないといけないんですが。 そういうのが全然わからず、勝手に地元の親戚や従妹の家を訪ねて周り始めたりしていたのが先代の耳に入って呼び出されたり。」


出典 twitter@GotodaMasazumi

「地元の応援もありましたけど、俺は自分でやり方があると思ってたので、結構ぶつかりましたよね。 例えば、うちの先代の元秘書からはこういう風にやってなどと言われ、いえいえそうじゃないでしょうと、ガンガンぶつかりましたよ。 選挙って、常に進化しないといけない。大体落ちる人ってもう古い後援会にしがみついてたり。自民党だけど僕は「改革保守」。保守っていうのは、常に挑戦してるから保守。常に守ったら終わりじゃないですか。常に進歩していかなきゃいけないし。 (ユニクロの)柳井さんじゃないけど、売り上げを3倍にするなら組織を壊さなきゃだめだと。僕は常に後援会とかを壊して行ったんですよ。」

10万軒のあいさつ行脚

「僕は会社を辞めた後、最初の選挙までの2年間ずっと地元を歩いて周ったんです。約10万軒周ったんですよ。 ただし、当時は三角代理戦争と言って自民党対自民党で戦ったりしていたので、後藤田と聞くと半分は嫌がる。 名刺を放られたり、玄関ピンポンすると蚊が入るとか言われたり。辛い思いもしましたね。まあ、でもそれは当然かなと思いながら。 最近は「風」とか「名前」で受かるとかよく言われているが、実は僕なんかはそういう地道な努力をしてきたんですよ。 今の小泉チルドレン、安倍チルドレンなんか見ると意外にやってないかもしれないね。そういうことを。」


出典 www.gotoda.com

「でも、それがあったから今こうして言いたい放題言えている。農協とも、医師会ともガンガン意見を言い合えている。 『サイレントマジョリティの声、ため息をも聞き漏らすな』というのが、僕の原点。 その原点があるから、一般庶民の皆さんさえわかってくれればいいと思っている。だからいまだに(特定の)団体なんかは僕のことが嫌でしょうがないかもしれないけどね。」

母の置き手紙

「その当時、僕は地元で築40年くらいの3畳一間の部屋に住んでいたんです。母がそこに1週間くらい来てくれたことがあって。 一日200軒とか周ったり、もう電信柱にまでお辞儀をしたりしていた頃、夜中に寝ぼけながら母に『お願いします』と頭を下げていたことがあったらしいんです。 母は東京に帰る日の朝に『我慢する樹に花が咲く』と書いた紙をこたつの上に置いて東京に戻りました。」

大叔父・後藤田正晴の厳しさと優しさ

「半年くらいたった時に先代に呼び出され『お前本当にやる気はあるのか』と聞かれ、そこでも、やはり応援するとも言われなかった。 うちの先代は多分一回くらいしか選挙事務所には来てない。でもあとから聞くとちゃんと電話とかしてくれていた。そういう、ちょっとやるなぁみたいな。」

「初当選して東京の大叔父の所に行ったら『なんぼ歩いた?』『よう歩いたな』と言われて、初めてよかったなと思いました。」

現在は?

 
毎週末、東京と地元(徳島)を往復

「2000年6月22日の初当選以来、17年になりますけど。毎週徳島。休みはありません。 逆に休みあったら何したらいいんだろうと。子供なんかとキャッチボールできないとかそういうのは申し訳ないというのはありますね。」


出典 twitter@GotodaMasazumi

奥さんやご家庭の様子は?

「かみさん?仕事やってますよ。この前(4月)も1か月福岡公演とかで家にいなかったり。今もちょうどロケとかで、うちで発声練習とかしてますよ。」


出典 後藤田まさずみ通信

「この前ね、息子(小6)の中学受験とか塾通いのことでかみさんと一悶着あった。そういう時、必ずかみさんに言われるんですよ『あなたの時代とは違いますから!』って。 みなさん言われませんか?(笑)」

「でもね、(同居の)おじいちゃん、おばあちゃんがいて助かってます。僕はマスオさん。そうじゃない家庭は大変だろうなと、こういう仕事で夫婦とも家を空けること多いしね。」


出典 後藤田まさずみ通信

これからは?

 
プロフィットセンター作りを

「僕はこれを2年くらい言い続けてるんだけど。 政治家って予算を分配することしか考えてなくて、これをビジョンとしてコスト選択という意識からプロフィットセンターに変えましょうと。 日本全体を。政治家って補助金配るとか、そういうのばっかりなんですよ。 それよりもどういう社会を作るかとかビジョンが我々に全然足りないし、役人もだめ。」


出典 www.gotoda.com

スポーツ産業の育成が鍵

「例えば、スポーツ産業。日本は利益を生み出せるプロフィットセンター作りに財政資金を使い、その利益を再配分し、 感動の対価を循環するための仕組みを作ることが重要。こうした発想がアベノミクスには欠けている。 でもこういう話をしてもあんまり自民党では受け入れられないだろうけどね(笑)。」


松野文部科学省大臣(右から2番目)と馳浩衆議院議員(左から2番目)と

93同期のみなさんへ

 
慶応義塾への熱きエール

「せっかく私学の雄と言われている慶應大学には、もっと頑張ってもらいたい。 例えば、アメリカのハーバード大学は世界中から常に憧れられる学校だけど、慶應はどうなの?と。なんか甘んじてませんかと。 ハーバードは過去最高の寄付金が集まり4兆円の基金があるし、学長は初の女性で非ハーバード卒と聞きます。 」

「ミシガン大学なんかは公立だけど、スポーツ、特にアメフトが強く、収入もあり、学力ランクも東大より上。まあ、予算が東大の3倍もあったり、アメフトヘッドコーチの給料が5億円だったりするらしいけど。 慶應もそういう風にしていく必要がある。」

もう一つの収益の柱作りを

「学費、寄付金の他にもうひとつ新しい収益の柱を作ってたりして頑張らないといけないのではと。 福沢諭吉は、学問のすすめの中で『国を支えて、国に頼らず』『常に先駆者であれ』と言っているのにどうして補助金に頼るのかと。 以前、清家(当時学長)さんにお会いした時にもそう言いましたよ。学問のすすめはたまに読むと本当に面白い。本当に先進的、今以上に先進的。」


慶應義塾・塾員国会議員懇談会(2011/2/11)
出典 www.gotoda.com

「まあ、簡単に言うと、ハーバードに幼稚舎あるか?藤沢校あるか?そうじゃなくて、原点に戻れというのを、我々卒業生は慶應義塾にそういうことを言わなければならないんじゃないかと。なんで慶應のTシャツをアジア人が着たいと思わせる学校にしないのか?例えば、我々は子供の頃にUCLAのTシャツを’ウクラ’とか言って着てたじゃない。そういうことを我々はやっていきたいよね。是非! 」

【 編集後記 】

実は、彼は毎日自宅から永田町の議員会館まで地下鉄で通っている。衆議院議員6期目の彼がだ。黒塗りのハイヤーで送り迎えのお歴々とは違う。『ため息のような(世の中の)声を聞き漏らすな』という彼の原点がそうさせているのだろう。既存の枠組みと闘い、国会でも歯に衣着せぬ彼の舌鋒は「カミソリ後藤田」とも恐れられた大叔父・後藤田正晴氏(故人)を彷彿とさせる。一時期の風に押されたり世襲を受け継いだだけの議員にはない本物の政治家の器を彼に感じた。
(取材・編集:馬場雅敬)

 

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