【第4回】山谷拓志君
【第4回】山谷拓志君
【 第4回 】山谷 拓志 君
(株)茨城ロボッツ・スポーツエンターテイメント
プロバスケットボールチーム[ サイバーダイン茨城ロボッツ ]代表取締役社長
山谷 拓志 (やまや たかし)
1970年 東京都昭島市生まれ
1993年 慶應義塾大学経済学部卒業、(株)リクルート入社
2005年 (株)リンクアンドモチベーション入社、スポーツマネジメント事業部長
2007年 (株)リンクスポーツエンターテインメント(当時社名、プロバスケチーム・リンク栃木ブレックス運営会社)代表取締役社長
2013年 日本バスケットボールリーグ(NBL) 専務理事/COO
2014年 (株)つくばスポーツエンターテインメント(当時社名、サイバーダイン茨城ロボッツ運営会社)代表取締役社長
大学時代は日本代表やオールスターにも選出され、社会人でもリクルートで2度日本一に輝くなどアメフトの有名選手。バスケの経験はないものの、2007年にプロバスケットボールチーム・リンク栃木ブレックスを創業。田臥勇太選手を獲得し、チーム設立から3年目で日本バスケットボールリーグ(JBL)制覇し日本一となり3期連続で黒字化も達成。日本トップリーグ連携機構による優秀GM表彰「トップリーグトロフィー」を2008年から2年連続で受賞。その実績を買われ、現在はBリーグ・サイバーダイン茨城ロボッツを再建するべく社長に就任、再び日本一になることを目指している。
【サイバーダイン茨城ロボッツWEBサイト】
https://ibarakirobots.win/
塾高時代
「中学まで地元(東京都八王子市)の学校に通っていたんですが、中学3年生の冬、受験勉強中に日本ラグビーフットボール選手権大会の決勝戦をたまたまテレビで見たんです。覚えている人もいるかもしれませんが、ラグビー日本一を決めるその試合で、故・上田昭夫監督が率いる慶應義塾大学が社会人チームのトヨタ自工を破り、初優勝を飾ったんです。それを見て、自分も慶應でラグビーを始めたいと思い、慶應義塾高校への進学を決意しました。」
でも、入部したのは「アメフト部」
塾高3年時のクラスメイトと
「でも入学後、ラグビー部のグラウンドを見て愕然としました。 慶應高のラグビー部には、小学校・中学校のころからラグビーをやってきた選手が数多く在籍している。自分が今からラグビーを始めたとしても、試合には出られないかもしれないという厳しい現実を感じまして。そんな時に、ラグビー部の隣に部室があったアメリカンフットボール部から勧誘を受けたんです。」
「『高校にはアメフト部が少ないから、頑張ればすぐ日本一になれる!』という勧誘文句にビビッと来て。人生でなかなか日本一になれるようなことってないよなぁと。アメフトだったら日本一になれるかもしれないと思って入部したんです。アメフトなら中学の経験者はいないので、皆ほとんど横一線からのスタートでしたしね。それに、ラグビーとアメフト、最初は違いがよくわかりませんでしたね(笑)」
大学時代は?
大学4年時の東京ドームでの早慶戦
「日吉には蝮谷の先に嵐が丘グラウンドというのがありまして。学生時代を振り返ると、嵐が丘グラウンドしか思い浮かばないくらい(笑)。大学時代もアメフト一色でしたね。お陰で?ゼミにも入っていませんでしたし。4年生の時にはバイスキャプテンを務め、学生日本代表にも選出されました。」
あと一歩のところで日本一を逃す
大学4年次には17年ぶりに日大に勝利
「しかし結局、目標としていた大学日本一を達成することはできませんでした。当時は日大が圧倒的に強かった。でも4年時のリーグ戦では17年ぶりに日大に勝利し、甲子園ボウル(大学選手権)まであと一歩に迫ったのですが、その後早稲田大に破れ夢絶たれました。高校、大学を通じて日本一になることはできませんでした。」
「確かにアメフト漬けの学生生活ではありましたけど、オフシーズン(年末年始)とかには結構アルバイトもやってましたよ。東横のれん街でお正月のおせち料理を売ったり、バレンタインにはチョコを売ったり、日吉では宅急便のアルバイトもやっていて、歩合で結構稼いでました(笑)。アルバイトを通じて商売の感覚を学んだような気がします。」
卒業後は?
「卒業後に入社したリクルートには『リクルートシーガルズ (現・オービックシーガルズ) 』という実業団アメフトのチームがあったんですけど、会社選びとは全く切り離して考えていました。 面接の時にも『卒業したらアメフトはやりません』と伝えていましたし。あくまでも純粋に仕事への魅力を感じて選んだ会社でした。 」
はじめは仕事に夢中だったが、日本一をあきらめられず選手に復帰
「ただ、僕が入社した前年に 『リクルート・シーガルズ 』が1部リーグに昇格して、日本一を目標に掲げるなど非常に勢いがあったんです。そうした状況もあり、せっかく大学時代まで本気で日本一を目指してやってきたアメフトを自分の会社でもできるのであればと気持ちが奮い立ち、もう一度、“そこ”を目指してみようと思ったんです。」
「入社後にアメフトを再開してからは、会社員とアメフト選手という二足のわらじを履くことになりました。会社員としては、人材総合サービス事業部門で営業に携わった後、マーケティング企画、組織人事コンサルタントに従事しました。」
「他の実業団チームと違って選手だからと仕事が軽減されることはなく、リクルートでは仕事も100%、練習も100%という感じで、休む間もなく仕事に練習にそして遊びも(笑)全力で取り組んでいましたね。」
ライスボウルにはスタメンで出場、ついに日本一となった
「そしてついに1997年1月、念願だったライスボウル(日本選手権)を制覇して日本一になることができました。高校のころからの夢だった日本一を果たした瞬間でした。この時の感動は今でも忘れられません。」
「その翌年、前十字靭帯を損傷して以降、たびたび控えになることもあったんですが、1999年には2度目のライスボウル優勝も経験させてもらいました。」
営業からコーチングまで、チームの運営に関わりスポーツビジネスを学んだ
「しかし、バブル崩壊以降の厳しい経営状況の中で、当時リクルートもかなりの負債を抱えており、ライスボウルを優勝した直後に、支援を打ち切るという通達が来たんです。ちょうど自分が30歳になった時でした。」
「シーガルズは実業団チームから独立運営のクラブチーム化しなければならなくなった。 だったら現役を引退し、会社も辞めて、自分がアシスタントGMとしてチームの運営に携わろうと決意したのです。それからは、自らスポンサー営業やチケット販売、PRを行いました。また、チームが強くないと注目も浴びないと考え、2年目以降はコーチも兼務するようになりました。選手の指導をしながら、練習が終われば営業活動を行う、そんな日々でした。」
「当時は、W杯の日本開催が決まるなどサッカー人気がものすごかった。日本でアメフトをもっとメジャーにするためにはどうしたらいいのか、もっとスポーツのビジネス化が必要なんじゃないか、そういったことを真剣に考えるようになって。自分がスポーツチームをマネジメントをサポートする仕事に就こうと考えたのです。」
「その後、リクルート時代の上司でありリンクアンドモチベーション社の創業者でもある小笹芳央氏からの誘いもあり、同社でスポーツマネジメント事業部門の立ち上げに参画することになりました。」
「栃木ブレックス」の社長という転機
2007年11月11日チーム創設初のホーム開幕戦でのスピーチ
「リンクアンドモチベーション社でスポーツマネジメントのコンサルタントをやっていたんですが、ご縁があって2007年から栃木ブレックスの創業にかかわり社長を務めることになりました。これは私にとって大きな転機でした。チームは2007-08シーズンに日本リーグ2部へ参戦し、何とチームができた初年度に優勝し、1部リーグに昇格することになったんです。」
2008年9月2日NIKE日本支社で行われた田臥選手の入団会見
「2008-09シーズンの開幕前、あの『田臥勇太』選手の獲得に成功したんです。世界中の名プレーヤーが集うNBAで日本人として初めてプレーしたスター選手を、1部リーグに昇格したばかりの栃木ブレックスが、ですよ。日本バスケ界にとっても衝撃でしたけど、獲得に動いていたこの私が一番驚きました。」
「田臥選手本人がその後、話してくれたことなんですが、本気でオファーを出してくれたのはブレックスだけだったらしいんです。他のチームはどこも無理だと思って最初から諦めていたんですね。」
田臥選手擁する栃木ブレックスは、チーム設立3年目の2009-10シーズンに日本一を成し遂げた。当時プロチームで日本一となったのは初めての快挙だった。
「当時2つのリーグ(NBLとbjリーグ)に分裂しているなど、日本のバスケ界は良好な状況にあるとはいえませんでした。そんな時に、『リーグを統合するために力を貸してほしい』と日本バスケットボール協会から声が掛かりました。」
「バスケ界にもJリーグのようなしっかりとしたプロリーグをつくることで、各チームの努力がもっと報われてほしいという思いもありましたし、何よりもバスケという競技の商品としての可能性を信じていました。世界中で人気があり、アメリカでは野球をはるかに超えて成功しているわけです。日本でももっと伸びる、もっと売れる、もっと人気が出ると考え、栃木ブレックスを離れて統合に向けた暫定リーグの専務理事/COO(最高執行責任者)を引き受けることにしたのです。」
茨城ロボッツではグロービス経営大学院学長の堀義人氏と共同オーナーも務めている
「2016年の統合プロリーグ(現Bリーグ)の創設というミッションのためにNBL(旧トップリーグ)の専務理事として邁進していた2014-15シーズンの途中、つくばロボッツ(当時のチーム名)が資金繰りの悪化によって存続が危ぶまれる事態にまで陥っていたことが判明しました。そこでまたご縁ある方々から請われる形でNBLを退任し、ロボッツの経営再建を引き受けることにしたのです。」
「それから先は現在に至るまで、いばらの道の連続でしたが、水戸に本拠を移し「茨城ロボッツ」に改称、オーナーに水戸市出身の堀義人氏(グロービス経営大学院学長)を迎え、順調に経営再建が進んでいます。現在はBリーグ2部ですが、Bリーグ2年目となる今季はB2優勝とB1昇格を目標に着々と準備が進んでいます。」
これからは?
「自分が着任した3年前の茨城ロボッツ(当時はつくばロボッツ)は、NBL(旧トップリーグ)では順位も観客動員数も最下位でした。しかしながらBリーグ初年度となった昨シーズンはB2東地区で2位になるまで復活しました。いま目指しているのは、最短で1部に昇格し2020-21シーズンまでにBリーグのチャンピオンになることです。」
「Bリーグのチャンピオンになるなんて、現状を見れば決して容易ではありません。それどころか不可能な目標のようにも思えます。 田臥選手獲得の時もそうでしたけど、最初から諦めるようなことはしたくはないんです。Bリーグ王者という高みに向かって妥協することなく挑戦する姿を、そして強くなっていく姿を地元の人々に見てもらいたい。縁もゆかりもない茨城という土地やバスケットボールという競技ではありますが、栃木のときもそうであったように、自分を信頼しサポートしてくれる人がいる限りは、とにかく最高の結果で報いたいと考えています。」
【 編集後記 】
今年2年目を迎えるBリーグの開幕準備で多忙を極める中、彼は快く会ってくれた。彼はアメフト選手時代、“オフェンスライン”というポジションを務めていた。一切ボールには触れず、最前線で自らの体を犠牲にして味方のオフェンスを支えるという正に縁の下の力持ちだ。地味ではあるが、アメフトという競技における醍醐味ともいえるポジションである。だからだろうか、 彼はいつも周りの人たちから請われ、その期待に応えるようにして人生を歩んでいる。“オフェンスライン”のような生き様を見せながら。
(取材・編集:馬場雅敬)
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